事件や事故に思う
事件や事故は日本社会の暗部を照らし出す。
関越自動車道のバス事故からは,過当競争から各バス会社が安全を無視して運行していた実態があぶり出された。
福山のホテル火災(写真)には,(今の時点でまだ何も一つ明らかになっていないが)中国人研修生の実態や行政指導の形骸化の問題がありそうだ。
これらはたまたま事故や事件が起きたから明らかにされたのだけど,もし何も起きなかったら永遠に明かされることもなく続いていったものだろう。
時々起こる事件や事故は,私たちに社会の裏側をかいま見せてくれて,その都度私たちは驚くことになる。
しかし驚くことではない。社会の仕組みとはそうしたものだ。表には必ず裏がある。光と陰,明と暗,清と濁が…。その両極の間に明確な線を引くことは難しい。
私たちはふだん,表の,光の,明の,清の…部分だけを見て生きている。裏の,陰の,暗の,濁の…部分は出来るだけ見ないように,あるいは見えないようにされて生きている。
考えてみれば,金沢からディズニーランドまで片道3000円というのは異常とも言える格安価格で,その陰にはどこかに無理があると気が付いてもよさそうなものだが,そういうことには誰も気が付こうとしない。 安ければいい。自分だけは事故に遭わないと確信している。
私たちの周りには「研修生」という名目のたくさんの外国人労働者が生活していて,彼ら彼女らは,仕事のストレス,言葉の問題や文化の違いなどで呻吟しているかもしれない。時には,闇の組織の温床となっているかもしれない。しかし,誰もそのことに進んで目を向けようとはしない。自分にさえ災いが降りかからなければそれでいい。日本人の嫌う仕事を引き受けてくれさえすればそれでいい。
事件や事故が起きるたびに私たちは起こした当事者を批判する。事件の背景にある問題点も批判する。
しかし,もう一歩突き詰めて考えれば,見ないようにしてそれを容認しているのは,それを必要悪として温存してきたのは,その恩恵にあずかってきたのは,実は私たち自身なのだ。
視聴率と学力
『家族のうた』という番組が低視聴率のために打ち切られるという。見たことがないのでどんな番組か知らないが,「番組制作」は「視聴率」しだいのシビアな世界だなと思う。
ただテレビ局は視聴率で熾烈な競争をしているから,面白い番組が提供できている。もし視聴率というものがなかったら,これだけ次々と新しい番組は出てこないだろう。たぶん北朝鮮や中国のテレビ番組は退屈だろう。
しかし,視聴率アップばかり考えていると,必然的に大衆受けする番組を作ることになるから,専門性の高い番組作りは期待出来ない。NHKのEテレが良質の番組を提供できているのは視聴率に一喜一憂する必要がないからだろう。こうしてみると視聴率というのは「両刃の剣」だ。
このことは「教育活動」を「学力テストの成績」で評価する今の教育環境に酷似している。「学力テスト」で競うから教育の質が上がっているのも事実だ。かつて「学力テストは差別・分断につながる」として現場が大反対していた頃は,そうした理念とは裏腹に教育活動の質も子どもたちの学力も低かった。
しかし,学力テストの数値ばかり気にしていると,教師が本当にやりたい取り組みや,こどもたちが夢中になる活動はできなくなる。というのは,そうした取り組みは時間がかかる。管理職も保護者もそんなことをするより国語や算数の問題を一つでも多く解くようにしてほしいと言うに違いない。
では,どうすればいいのか?
ダブルスタンダードでやればいい。
つまり,学力テストの前には対策的な勉強をしっかりやる。これをするかしないかで平均点の10点くらいはすぐに違ってくる。ある程度の点を取らせれば,みんな安心する。
ここで大切なことは「こんなものは真の学力ではない」と,教師は正しく認識することだ。その上で,普段の教育活動は,じっくりと腰を落ち着けて本当にやりたいことをやればいい。
透明人間に憧れる
ウェルズの『透明人間』に触発されて,石川啄木は「うすみどり飲めば身体が水のごと透きとほるてふ薬はなきか」と詠んだ。
「誰からも注目されたくない,誰からも賞賛も非難もされたくない,透明な存在になりたい」という意味だろう。おそらく啄木は自意識過剰人間だから,本当は注目されたいのだけれども,同時に傷つきやすい人なので現実逃避を夢見たのだろう。
啄木とは違うけれども,私も最近「透明人間」になりたいと思う。
透明人間になるには,何も薄緑色の特殊な薬を飲む必要はない。別に難しいことでもない。風景の一部になればいい。目立たないように周囲に溶けこめばいい。
門番の兵士が微動だにせず立像のように立っている姿を想像すればいい。あれが透明人間だ。ドラマで通行人役が自然体で通り過ぎる。あれも透明人間だ。完全に風景の一部になりきっている。決して自分は主役ではないと与えられた役に徹している。
昔,ヨーロッパ旅行をした時に,レストランで,初老で恰幅の良いウェイターが,糊の効いた真っ白なシャツと黒いタキシードを見事に着こなし,柔和な笑みを浮かべ,決して目立たず,それでいて実に細かなところまで気配りしていた。客の誰かがコップを落としたとき,手早く処理し何事もなかったように振る舞った。主役はお客だと黒子に徹していた。
日本でもコンビニに入ったときに,妙に馴れ馴れしく口を利かれるのは嫌だし,そうかと言ってつっけんどんなのも困る。制服が乱れているのも,店員が私語を交わしているのも嫌だ。そういう「生」や「個」を消した適度な距離感のある店がいい。
それに比べると,テレビ番組なんかで,出てくる人の誰もが自分こそが主役になって目立とう目立とうとギラギラしているのはあざとい。
私も現役ではないし,若くもない。ギラギラした生き方はもう似合わない。風景になりたい。透明人間に憧れる。
乃南アサ『あなた』
ごく大雑把に言って,小説のおそらく7~8割は三人称で書かれている。残りが一人称。というわけで二人称の作品というのは,世の中にほとんど無い。というか普通はあり得ない。しかし,倉橋由美子の『暗い旅』以来,最近では重松清の『疾走』とか,そしてこの乃南アサの『あなた』とか,ときどき出会う。
大体,二人称の小説なんて私にいわせれば無理。二人称の視点でなくてはならない必然性が無い。それに一番の問題は,「あなたは…」と語られている主人公がいて,それとは別に「あなたは…」と語っている人がいて…。その語り手は,どうして「あなた」の心の中に入り込むことが出来るのか?どうしてもそこに不自然さが出る。
今回,乃南アサの『あなた』を読んだが,最初こそ「これなら二人称もありかな…」と期待させたが,最後は「やはり無理だった」という思いを強くした。
この作品,「あなたは…」と語っている人が悪人なのだが,最後近くまでそれが誰か分からない。えっ?残りページが少ないのに,こんな展開にしちゃっていいの?一体どうやって収拾をつけるつもりなんだよ?と心配しながら読み進めていくと,最後は強引に超自然現象のアンビリバブな世界,日本の「狐憑き」伝承にしてしまった。まあこれなら何でもありだよな,でもちょっと「掟破り」じゃないのって気がする。
前半,乃南アサの得意な登場人物の心理描写が濃密に書かれているだけに,後半のオカルトっぽい結末には,木に竹を接いだような違和感が残った。
巻末に「新潮ケータイ文庫配信」とあるから,ケータイで小説を読む人(たぶん若い人)のために書かれたのだろう。乃南アサは,私の大好きな作家の一人だが,ケータイ小説であることを差し引いてもこれは失敗作でしょう。
日本の農業に未来はあるのか?
固定資産税の納入通知が来た。
私は農業をしないが,わずかばかり(3反ほど)の田を持っている。それに税金がかかる。我が家の田の場合,課税標準額が1反あたり約10万円と記されている。それに対して本町では1.4%の税金がかかるから,1反あたり約1,400円の税金を払わなくてはならない。
江戸時代の「五公五民」や,明治時代の「地租改正」と比べたら税金は格段に安い。
しかし,それでも農家は苦しい。
仮に1反あたり8俵(480㎏)の米が収穫出来るとして,1俵を16,000円と計算しても12万8千円の収入にしかならない。そこから苗代,肥料代,農薬代,燃料代…と引いていくと実収入はどんどん少なくなる。おまけに,今の農業は大型機械がないと難しいから,大型機械を揃えると数百万円はかかる。その償却費を考えていたら,とてもじゃないが小規模農家はやっていけない。どうかすると赤字になる。
私の場合も,この3反の田に正直手を焼いている。無理して耕作しても「労多くて益少なし」。かといって先祖からの土地を手放すのは良心が咎める。荒れ地にすると近所に迷惑をかける。2~3年休耕すると元の田に戻すのが難しくなる。
そこでどうしているかというと,知り合いに頼んで耕作してもらっている。小作料はもらわずに税金は私が払う約束で。結局,毎年税金分だけの赤字ということだが,それで先祖からの田が守られているのなら安いものだ。
米の値段はここ何十年も変わっていないし,減反政策で作付けも減らさなくてはいけない。今度もしその上,TPPに参加することになれば,日本の農業はますます苦しくなりそうだが…。
